誕生日に関して思うこと
ベンチャー業界の著名人勝屋久さんがメールマガジンを始められたそうで、購読。日本の地方における良い店や場所などを紹介されるとのことで、ブランド国家を学ぶ個人としては興味深いところ。
その中で、誕生日に関する興味深い記述がありました。
今月は私の47回目の誕生日がありました。
誕生日ではお祝いをしてもらったりして、そのときはとてもうれしく、
本当にありがたい気持ちになるのですが、どうも自分では毎年くる
誕生日が特別な日だという感じが昔からしなかったのです。
以前、ある友人に「誕生日は特別な日という感じがしない。」と話したら、
「それは自分の存在にOKをだして(認めていない)じゃないの?」と
いわれたことがあります。それに対してむきになって「自分の存在意義は
・・・・だ」と反論してしまいました。
これで、思い出したことが自分の誕生日の認識。
「誕生日というのは、自分が何もしなくても1年に1度は回ってくる。そのような規則的に得られる日は大切ではないのではないか?」という認識がありました。努力して誕生日を迎えたり、何かの縁やキッカケ、成果によって誕生日がくるならまだしも、生きているだけで得られる日というのは、他の祝うべき日に対して、相対的に希少度は低くなります。そのため、誕生日を祝うのは、他の祝うべき日に対して失礼ではないか?と思っていました。
もちろん自分の生を見直したり、1年に1度だからこその排他性による希少度、親や周りに感謝する日などのアクションを起こすためのきっかけ日としては良いのですが、それならば周りに祝ってもらうのは何だかフェアではなく、自分でその日を見つめるだけで事が足るのではないか?と。
ただ、最近、ふと考えたのは、誕生日にも祝うということの起源があるのではないか?という点でした。
つまり、過去には「誕生日をお祝いする」という文化がない時代があったでしょう(おそらく)。しかしいつからか誕生日を祝うようになった。それには何かしら理由があるはずです。ホワイトデーのような企業のマーケティングという側面があるような日もあるので、誕生日もどこかのお殿様か財閥が仕掛けた可能性もありますが、ただそれなりの潜在的ニーズがあったからこそ受け入れられたと考えれば、やはり、そもそも誕生日のニーズはあった。
それを鑑みるに、「自分だけの祝い日」というものは、よく考えると誕生日以外はほとんどないことに気づきました。つまり、任意の個人1人を祝いたい場合、誕生日以外のオプションはあまりないのです。もちろんバレンタインデーやクリスマスなどにひっかけて相手を祝うということは可能ですが、それの祝う根拠は低いですし、そもそも、その日は全国的に同一日なので、複数の人を祝うことができません。誕生日というのは1年に分散されているからこそ、誕生日トラフィックジャムが起こりにくい利点があります。
そう考えると、仮説でしかないですが、何かしら個人を祝うキッカケというものが人間のコミュニケーションには必要であり、その記念日の受け皿として誕生日が選ばれたのではないかと考えた次第。もしかすると、「進路を決めた日」「初恋の日」「初めて寝返りをした日」でもよかったのかもしれませんが、便宜的都合で誕生日の方が楽ですから。
というようなことを、まじめに考えたわけではなく、半分冗談ではありますが、そのようにして誕生日の価値を何だか思う次第。とはいえ「個人を祝うキッカケが人間のコミュニケーションに必要だった」のかどうか、必要だったならばなぜ必要なのか?という点はさらに検討する必要はありますが。
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