2009/8/7 金曜日

メールの返信には1分もかからないと思っていた若かりしころ

Filed under: 独り言 — admin @ 9:33:04

学生の頃、社会人の方々とやりとりをすることがあった。忙しい人だと、なかなかメールの返信を頂けないこともあった(一週間以上とか)。

先方も忙しいし、しょうがないと思っていたのだけれど、同時に「このメールの内容なら返信が1分もあれば返せるのに」とも思っていた。つまり、「先方が毎日、夜、深夜まで飲みにいっていること」を知っていて、そういう時間あれば、10分でも明けてもらって、メール返信頂けないのかしら?と思った時があった。

でも、今、自分が少しばかり大人になって思うのは、「多分、そういうことじゃないんだな」と気づく。

つまり、先方はそのメールだけを受け取っているのではない。同時に無数のメールを受け取っている。よって「そのメールを返すのには、1分もかからないかもしれないけれど、そのようなメールが100通もあれば、100分かかってしまう」ということになる。

当たり前といえば当たり前なのだけど、最近、改めてふと思った。

それはtwitterのライムラインを見ていてだ。

たとえば、自分が先方の原稿を待っているとする、あるいは見積もりを待っているとする、あるいは納期が過ぎていて、アウトプットを待っているとする。先方がtwitterにコメントを書き込んだ。それを見て、「ああ、そんな暇あるなら、早くくれよ」と思う。

でも、そういうことじゃないよなぁ、と。

#昨今、学生の頃と逆のパターン(急かされる側)になってしまって改めてそう思うのかもしれない。

2009/4/28 火曜日

立ち直れない日本とブランド国家論

Filed under: 独り言 — admin @ 23:05:15

ブログ界隈で以下の記事が話題になっていて(というか、はてブで見かけただけだけど)

» On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう

渡辺千賀さんの記事で

これまでずっとなるべく言わないようにしていたのだが、もう平たく/明快に言うことにしました。
1)日本はもう立ち直れないと思う。

とのこと。

で、これに関して少し。

これは、何に対して立ち直れないか?という思いがあります。

文章内で

国内経済に活力はないが

多くの貧困層に分離

などの記述にあるように、経済力をベースにした判断なのかと読めます(骨子の論拠は明確には書かれていないのでわかりませんが)。

そして、経済力に関しては、諸処の要素を組み合わせれば、確かに日本の今後は今までとは趣が変わるだろうなぁ、という想像はたやすいです(メインが人口減、あとは高齢者層の増加、教育格差、ドメスティック経済圏、IT界隈での存在感などなど)。そういうのは今更始まったわけでなく、少子化に関してはメディアに取り上げられ初めてきたのは10年弱くらい前から。確か専門家は「20年くらい言ってきた!」という人も見かけたことがあるので、まぁ昔から言われているのでしょう。そして昨今、改めてそれが明確化されてきた、と。

私自身もまさにそういう思いがあったので、アメリカに留学しました。しかしながら、やはりアメリカと日本では経済力だけで比較をすることはできません。そこで、気づいたのは「経済力(わかりやすくいえばGDP)」で比較するということ自体が今後、間違っているのではないか?という思いでした。

そこで、2001年(2002年だったか)あたりより研究を始めたのが、ブランド国家論でした。ちょうど、当時、私は国際政治をまじめに学ぶ学徒だったのですが、その界隈の著名な雑誌「フォーリン・アフェアーズ・リポート」を楽しく読んでいました。米外交問題評議会(CFR)のジャーナルというタイトルからもわかるようになかなかハードコアな雑誌です。

そこで、ちょうどオランダの学者、ピーターヴァンハムが提唱した「brand nation」という論文がありました。まさにブランド国家論です。当時の背景としては、EUの勢いが強く、その中でオランダなどの中堅国家は存在感が弱くなってきていました。あるいは、この概念は「軸をずらそう(脱構築まではいきませんが・・・)」という話なので、アメリカからも出る論旨ではありません。そういう流れもあって、この概念が欧州から生まれたのは不思議ではないでしょう。

日本の今後に多大なる興味を持っていた1人として、その論文はむさぼり読みました。英語だったかと記憶しているのですが、もしかすると日本語でも出ていたかもしれません。図書館探せばあるかも。

比較的短い論文でしたが、その中には、タイや台湾、イギリスなどがブランド国家計画を行っているというもので、今後、そのような概念が国策(国のグランドデザイン)として欠かせないという話です(もう少しややこしい話だった気もしますが)。日本のケースを調べたところ、堺屋太一さんが似たようなことを旗振りをやっていたようですが、今は聞きませんので、不明です。これは言葉でいうと「ふーん」という感じですが、国際政治的には非常に興味深い試みだったんじゃないでしょうか。

というのも,いわゆる「国益」(外交で重要な概念ではありますが)というものは日本においては定義されていなかった気がします。つまり国の存在価値の議論があるとともに(古代からひもとけば)、同時に、国の目標も議論として存在するべき議題でした。

アメリカはおぼろげながら定義されていたかと思いますが(ブッシュの時あたりは民主主義の拡大とかだったでしょうか。違うコンテクストだったでしょうか。間違っていたらごめんなさい)。その国益が定義されず日本が運営されているというのも興味深い話なのですが、つまりは、ブランド国家は、その命題にも携わってくる問題なのです。そういう意味ではかなり野心的な試みと言えるでしょう。逆にいうとそのような取り組みをしないと、各国は
存在意義を問われるというほど切羽詰まった問題だったこととも考えられます。これがインドや中国、アメリカ、ロシアなどではあまり行われていないというのもそれを示唆しているかと思います(弱気になっていく国が取り組む命題)。

ブランド化すると何がいいのか?と言うと、1つは政治的な意味でのプレゼンスが確保できるということです。まだまだ国際政治でハードパワーなやりとりが行われている昨今においては、このようなソフトパワー(C:ナイ)も重要です(厳密にいうと、これはナイの定義するソフトパワーとは異なりますが、対比の1つとして利用)。

もう1つは観光の力を活用できるということでしょう。日本におけるGDPの0.1%ほどですが、確か南アフリカでは、10%弱にも達するという憶えがあります(そういう意味でアフリカが内戦が多いというプロパガンダは実質的な意味でアフリカの経済をひっぱることになっています)。

まぁ、いずにせよ、結局、GDP一辺倒の指標からはいつか逃げ出すという選択肢もあるでしょう。そして日本が経済で過去のas no.1の栄光を取り戻せないならば、そちらに賭けるのも一興です。そういう思いで私は大学時代をこれを学ぶことに費やしました。その演繹として大学時に休学し、1年で80カ国を回りました。フィールドワークという意味では非常に意義深いものでした。

そこで、私は日本のブランドはこれだ、というものを暫定的ながら得ることができました。よく飲み会の席で聞くのですが、相撲、寿司、経済力、メーカーの力、温泉など色々でてきて興味深いです。答えを言うのはつまらないので、言いませんが、まぁ、いずれにせよ、そのように国のブランドを活用することによって、国は存在価値を得るのです。もちろん、これには課題や反論も多々あるでしょう。そもそも生活と密接に関係しているのは経済ですし、ブランドがあっても経済がダメではそもそも論話にならないでしょうし、今でもある程度のブランド化はしているという見方もあるでしょう。ただ、やはり、国家レベルでブランドに注力することは、1つの試みとして興味深いと考えております。

そしてこれはまだライフワークでブランド国家論を考えている昨今であり、実はそのような背景がアルカーナの理念とも関係していたりします。

アルカーナの理念は「個人のエンパワーメント」ですが、これは「個人が活躍できる世界は素晴らしい」という思いがあるとともに、マクロ的にも日本は個人の力を欲しているのではないかと思ったりします。単純に経済力の低下を人口に依るとすれば(他の要素も無数にありますが)、そして、人口減が前提としてずらせないものならば、じゃあ、その人口が減る世界で、いかにパフォーマンスをあげるべきか?という命題になります。その結果、「活躍できる人口を増やす」ないし「個人のパフォーマンスをあげる」ないし、「その両方」で解決できるようになります。そこで、個人のエンパワーメントが繋がってくるわけです。2つの点から個人の活躍は個人のパフォーマンスをあげると思っています。1つは、個人は自分のしたいことをしている時が一番アウトプットがでる傾向にある(という仮説)、もう1つはミルではないですが、適材適所が一番有効に働くのが個人という単位での動きだと思うからです。もっともこれらも仮説ですし、全員が個人という単位になるとそれは逆効果なので、最適な分配はどの程度まであるかは検討を要しますが。

なーんて、ことを該当記事を見ながら思い出しました。

2009/4/26 日曜日

ウェブにおける文章の読み方

Filed under: 独り言 — admin @ 12:44:51

先日、あるメールマガジンを友人に転送した。その人に参考になりそうだったからだ。

しかし、その人から意見は意外なものだった。

文章ひどい。読めない!

ほほう、と私は感じた。私はそのように感じなかったからだ。そしてその人も文章が読むのを苦手ではなかった(ロシア文学とかも平気で読むし)。

たしかにそのメールマガジンは文章量は多い。ただ、内容は一般的なネットの文章と変わらない。むしろ、構成が読みやすいくらいだ。

そこで気づいたのだが、ネットでの文章と一般の文章は違うものではないか?と。当たり前といえば当たり前なのだが、何が違うかと考えると興味深い。

これは、メディアや読み物の文章は他の媒体と大きく変わらないので、おそらくブログや日記での文章の特製をネットでの特殊な文章だと仮定する。その場合、それらに見られるのは、過去には「文字いじり」といった文字のフォントや色を変えて読ませる文章。昨今では、CAの藤田社長のブログにあるような「行間を大きくして改行を多くする文章」もよく見かける。あるいは、Lifehacks系の文章では、段落と引用文を多様して,構造的な文章が多い。ただこれらは結局個別論だ。

何よりインターネット媒体の特質は「横書きで、かつ、縦に長い」ということに尽きる。そこで、気づいたのだが、ネットの文章を早く読む人の特徴は、マウススクロールを活用しているのではないか?と思った。これは数人を頭に思い浮かべて、その人のマウススクロールの音を思い出しただけなので、論拠は特にない。

そこから、少し話はずれて、速読の話に入る。速読はいくつか方法はあるものの、1つの方法として、複数の行を1つのブロックとして捕らえるというものがある。つまり、1字1句を読むのではなく1行一気に読む(この時、音読しないことが重要。それがボトルネックになるので)。そして、次に数行続けて読む。最終的には、ページの右上から左下に視線を滑らせて一読するというものとなってくる(フォトリーディングもこれに近いかもしれない)。

そして、ネットの文章は、まさにこれに適している。つまり、左側に目線を固定して、あとは目線を大きくとる(右側の文章も認識できるようにする)。そして、あとはマウススクロールで一気にページをスクロールダウンすれば、長文でもすぐに読むことができる。というか、むしろこのように読まないと、Webの長文なんて読めない。その中で必要な箇所だけピックアップして読めばいい。重要な箇所は、書籍と違い太字や色が付けられていることもあり、必要な箇所を見つけるのにそうそう困らないだろう。

ただ、こう考えた場合に、ファーストパラグラフの重要性を思い出した。いわゆる英語の読み方で勉強された方もいるかと思うが、第一のパラグラフで文章の概要を伝える、ないし、ファーストセンテンスでそのパラグラフの内容を伝えるなどの手法(だった気がするけどさすがに受験を離れて遠いので忘れました)。仕事がら、海外の記事は読む方だと思うが、あんな英語の文章を1からしっかり読んでいたらいくら時間があってもたりない(NY timesとかWashinton Postの特集記事や、なぜか濃密な長文ブロガーたち)。そこで、上記の方法が効率的に作用する(ある程度)。

しかし、日本では、あまりそのような「最初の段落に伝えたいことを言うべし」というようなメソッドは聞かない気がする。むしろ、オチはちゃんと最後までとっておいてね、というケースが多い。だから何?というわけではないがネットでの効率的な情報収集のニーズが高まれば、そのような「概要」を記す記事も増えてもおかしくない。

あとは、ネットの特製として「タイトル」の重要性があげられる。リンクの文章としてもタイトルは活用されるため、人によっては1:9の割合で、内容よりタイトルの方が重要だ、という人もいた。そう考えると、タイトルは内容を把握する役目も担っているのかもしれない(ニュース系の記事だとタイトルで内容の8割くらいは理解できることも多い)。ただ、これは一種の仮説思考(タイトルから内容を推定する)になっているのかしら、と気づいた。

他には、多くのパラグラフもあげられるかもしれない。英語ではそのままだが、日本語では、段落を分けることはそんなに多様されていなかった。しかしブログなどでは、かなり細かにパラグラフがわけられている。それによって、その文章の固まりがどのような意味を伝えているかわかりやすくはなっているかもしれない。

まぁ、つれづれぐだぐだと書いてしまったが、ネットの文章というのは、書き方が独特だけでなく、読み方も独特なんではなかろうか、と思った次第。つまりはネットの文章をあまり読んでいない人とよく読む人では、同じ記事を読んでも、読み方も異なれば、受け取る情報が異なるかもしれないなぁ、と思いました。

2009/4/23 木曜日

誕生日に関して思うこと

Filed under: 独り言 — admin @ 9:49:35

ベンチャー業界の著名人勝屋久さんがメールマガジンを始められたそうで、購読。日本の地方における良い店や場所などを紹介されるとのことで、ブランド国家を学ぶ個人としては興味深いところ。

» 勝屋久の情熱∞日本紀行 - まぐまぐ!

その中で、誕生日に関する興味深い記述がありました。

今月は私の47回目の誕生日がありました。

誕生日ではお祝いをしてもらったりして、そのときはとてもうれしく、
本当にありがたい気持ちになるのですが、どうも自分では毎年くる
誕生日が特別な日だという感じが昔からしなかったのです。

以前、ある友人に「誕生日は特別な日という感じがしない。」と話したら、
「それは自分の存在にOKをだして(認めていない)じゃないの?」と
いわれたことがあります。それに対してむきになって「自分の存在意義は
・・・・だ」と反論してしまいました。

これで、思い出したことが自分の誕生日の認識。

「誕生日というのは、自分が何もしなくても1年に1度は回ってくる。そのような規則的に得られる日は大切ではないのではないか?」という認識がありました。努力して誕生日を迎えたり、何かの縁やキッカケ、成果によって誕生日がくるならまだしも、生きているだけで得られる日というのは、他の祝うべき日に対して、相対的に希少度は低くなります。そのため、誕生日を祝うのは、他の祝うべき日に対して失礼ではないか?と思っていました。

もちろん自分の生を見直したり、1年に1度だからこその排他性による希少度、親や周りに感謝する日などのアクションを起こすためのきっかけ日としては良いのですが、それならば周りに祝ってもらうのは何だかフェアではなく、自分でその日を見つめるだけで事が足るのではないか?と。

ただ、最近、ふと考えたのは、誕生日にも祝うということの起源があるのではないか?という点でした。

つまり、過去には「誕生日をお祝いする」という文化がない時代があったでしょう(おそらく)。しかしいつからか誕生日を祝うようになった。それには何かしら理由があるはずです。ホワイトデーのような企業のマーケティングという側面があるような日もあるので、誕生日もどこかのお殿様か財閥が仕掛けた可能性もありますが、ただそれなりの潜在的ニーズがあったからこそ受け入れられたと考えれば、やはり、そもそも誕生日のニーズはあった。

それを鑑みるに、「自分だけの祝い日」というものは、よく考えると誕生日以外はほとんどないことに気づきました。つまり、任意の個人1人を祝いたい場合、誕生日以外のオプションはあまりないのです。もちろんバレンタインデーやクリスマスなどにひっかけて相手を祝うということは可能ですが、それの祝う根拠は低いですし、そもそも、その日は全国的に同一日なので、複数の人を祝うことができません。誕生日というのは1年に分散されているからこそ、誕生日トラフィックジャムが起こりにくい利点があります。

そう考えると、仮説でしかないですが、何かしら個人を祝うキッカケというものが人間のコミュニケーションには必要であり、その記念日の受け皿として誕生日が選ばれたのではないかと考えた次第。もしかすると、「進路を決めた日」「初恋の日」「初めて寝返りをした日」でもよかったのかもしれませんが、便宜的都合で誕生日の方が楽ですから。

というようなことを、まじめに考えたわけではなく、半分冗談ではありますが、そのようにして誕生日の価値を何だか思う次第。とはいえ「個人を祝うキッカケが人間のコミュニケーションに必要だった」のかどうか、必要だったならばなぜ必要なのか?という点はさらに検討する必要はありますが。

2009/4/18 土曜日

狭い世界

Filed under: 独り言 — admin @ 13:59:53

最近、完全に引きこもっており、飲み会も交流会も花見も新年会も不義理ばかりである。

しかし、昨日はふらっとお声をかけて頂いた勉強会に参加した。勉強会の内容とその枠(イベント)に興味があったのだ。

そこで驚いた。20人~30人くらいのメンバーだったと思うのだが、ご縁のある方にお会いした。もちろん知人や友人などはIT業界も狭いから会うことはあるだろう。しかし、そこでお会いしたのは、ちょっと普段とは違う方々だった。

1人は大学時代のゼミの友人。5年ぶりの再開。

そして、コンサル時代の同期。これも3年近くぶり。

さらには、インターン時にご一緒していた方。これは4年ぶり。

うーむ、と思わずうなってしまったご縁だった。

世界は狭い、特にネット業界はなんだかんだいって狭すぎる業界で、大体3人も通せば誰かには繋がるような世界。六次の隔たりそこのけである。

そこで思い出したのだが、自分自身の奇遇な邂逅(どこかのブログに書いた気もするが)。

彼と初めて会ったのはジンバブエ だった。同じ大学で、私と同じように休学していた。さらには同じ学年だった。そんな彼とたまたまジンバブエの同じ宿の同じ部屋になった。

そして彼とビリヤードやとうもろこしを楽しむ日々で、私は南アフリカに旅立ち、彼は残った。

次に再開したのは、ハンガリーのブダベストの宿だった。その時、私は西アフリカを回ってたどり着いたので時間的には2ヶ月後くらいだろうか。

彼がなぜそこにいたかというとマラリアに感染し緊急輸送されたそうだ。そこでの再開を楽しみ、次に私は北欧を目指した。彼は別の街に旅立った。

そしてアムステルダムで落ち合い(これは意図的)、そして、パリでも落ち合い(これも意図的)、そして、ニースのマクドナルドで偶然再会した。

その後は、日本の三田キャンパスのベンチの前で再度、再開することになるのだが、改めて世界は狭いなぁ(あるいはパッカーの日本人コミュニティが狭いのかもしれないけれど)、と感じる出来事だった

2008/5/15 木曜日

睡眠が厄介

Filed under: 独り言 — admin @ 11:18:48

いろいろ会社のことでご報告させて頂きたいこともあるのですが、追々。

最近、自分が抱えている問題に関して。

睡眠が不規則になり、うまくハンドリングできていない。以前までは、きっちと定期的な時間をとっていた。学生時代も、社会人(サラリーマン)時代も。大体1時から2時に寝て、5時から6時に起きるというリズムだった。睡眠を短くし、質を確保するには時間を定期的にとることが何より重要である。言うまでもなく。

ただコンサル時代も徹夜はザラだったので、別段、そのような不規則なこともあったのだが、起きる時間さえ一定にしておけば、何とかハンドリングできた。それが出来たのは、何よりツールの力が大きかった。それは目覚まし8個の力だ。

しかし、今、それが難しく起きる時間を一定することに難儀している。というのも作業の都合で、朝近くまで作業をすることが多々あり、そうなると会社で仮眠を取ることになる。そうすると、会社には目覚ましが1つ2つしかないため、ついつい寝すごしてしまうことになる。気づけば社員の出社で目が覚めてしまう。

またコンサル時代には、会社の机で仮眠をとっていても、誰か別の人の徹夜しているので起こしてもらうこともできた。しかし、今の会社ではまだまだ少ない人数で起こしてくれる方もそうそういない(夜中だと)。そうして、気づけば朝になる。

やはりこういう時に聞くのはモーニングコールである。ただ、単に電話で起こすわけではなく今の時代、メッセンジャーもあれば、Webの目覚まし時計もある。実際、mixiなどでも「○時に電話してください!」というような書き込みもあり、友人にスポットで起こしてもらうという人も存在する。

そしてモーニングコールの楽しさというのは、そこに会話が生まれるということである。それは目覚まし時計もない魅力。そう、目ざまスというのはコミュニケーション形態の一種なのである。

ということで、こんなアイデアを以前、ideamiに投げた覚えがありました。

» P2Pの目覚ましサービス「お前誰やねん、でも起こしてくれてありがとう」 - ideami

実際、少し似たサービスもあるようで。

» 指定した時間に女性がモーニングコールしてくれる無料サービス「AXE WAKE-UP SERVICE INC.」 - GIGAZINE

何か、そのようなモーニングコールで繋がるものっていうのは、何かしら浪漫を感じさせる次第であります。

2008/4/16 水曜日

メールの臨界点

Filed under: 独り言 — admin @ 15:36:11

現代において、仕事において電子メールは欠かせないコミュニケーション手段となっている。いまさら言うまでもなく。

一般的な業界でもそうであるからWeb系の企業だとなお更増える傾向があるという。多い人だと1日数百、あるいは数千に達することもあるとかないとか(千を超えるのは稀としても)。送信するメールだけでも数十は日常であり。

そうなってくると作業の大半がメールに費やされている事実に愕然とすることも少なくない。そして返したメールにさらに返信メールが届き、それが続けばメールは不可逆的に永遠に増え続けるものとなる。

特に日本では、メールにもある程度の丁寧さを求める作法が暗黙のうちに存在しているようで(肌感覚)、なおさら、そのような文章作成に時間がとられがちである。もちろんある程度は定型文やテンプレート、辞書への登録で効率化は図れるが、それでも相当量のメールを裁くには時間の圧縮にも限界があるというものだ。

さらに厄介なのは、少しのメールしか残っていなければ、すぐに返せるものの、ある一定量を越すメールがたまれば、返すモチベーションが反比例して下がっていくという人間の心理である。つまり、数十通ならば「よし、一気に返そう」と思うが、百を超えたりすると、もはや着手するための動機作りに腐心しなければならない。

このような心理状況はメールだけに限らず、日常で体験するものだろう。タスク量もそうだし、もしかすると借金などもそうなのかもしれない。返せる金額だと返そうとするが、返せない金額になると、自己破産へと向かう心理が芽生え始めるのではないかしらん(想像)。

そう考えると、メールをためないコツは、メールをためないことが一番というトートロジーになってきて、まぁ、もちろんいわゆる「GTD」的にシステマティックに対策する方法もあるけれど、やはりそれにも限界がある。

いずれにせよ、メールとの戦いはしばらく終わりそうにない戦場がここにあるなぁ、と。

2008/1/28 月曜日

電話で思うこと

Filed under: 独り言 — admin @ 22:30:12

会社を経営していると、よく電話がかかってくる。特に営業電話が非常に多い。どこも同じだとは思いますが。

たとえば電話代が安くなる、家を探していませんか、土地買いませんか、広告しませんか、etc・・・。

基本は私自身が受けることは、あまりないのだが、たまに出ることもある。

そんな時、相手のしゃべり方の構成を聞くようにしている。つまり、これらの電話というのは、いわば、「プロの営業電話のノウハウ」を公開するものであるからだ。

もちろんプロではないものもいるし、よくない電話もある。ただ、それなりに聞いていると、参考になる点も少なくない。

たとえば導入。「いきなり質問から入る」というパターンで、まずは答えさせるというケースや、大企業の名前(実際は代理店)を使って安心させるケース。

はたまた、切られそうな時に「違うんです」ととりあえず否定するパターンや「一度だけお会いさせていただけないでしょうか」と無理やり、持ち込むパターン。

弊社はこのような営業電話はしないのだけれど、たまに、こういう電話に逆営業をすることもある。相手は面食らうけれど。

しかし、いつも思うのだけれど、こういう電話で相手を 笑わせる人というのはあまり聞かない。もちろん目的から考えれば、笑わせるのはNGなのだけど、アイスブレークには有効でもある。

まぁ、でも営業電話で笑わせるというのは、相手の空気(口調や高さ)をかなり読む必要があり、割に合わないのかも知れないなぁ、と思う。

2008/1/15 火曜日

わかっていることとできること

Filed under: 独り言 — admin @ 16:48:53

ニュースを見ていると未来に関する記事を見かけます。

たとえば2012年の予測であったり、今後 くるトレンド、であったり。あるいは新しい特許や発明などなど。

そして「なるほど。これはくるかも!」と思っても、すぐにその波に取り掛かる企業は多くはありません。なぜなら社内調整があり、あるいは社内の方向性があり、はたまた予算の問題があります。

それに「きそうだな」と思っても、くるかどうかが半信半疑な以上、そこにチャレンジするのはリスクが伴います。

たとえば、今後、クリーンテクやモバイルの位置情報サービス、DNA周り、農作物周りなどのビジネスは発展する見込みはかなり高いでしょう。しかし、それでも多くの企業が一気に仕掛けることはありません。

もし「絶対くる!」と思っていてさえも、できないのが現状です。結局、ベンチャーが新しい種を掘り出し、後を追う大企業は大体1年から2年は遅れているようです。

ネットのトレンドはそれが顕著で、SEOであれ、モバイルサイトであれ、ブログであれ、SNSであれ、みんな「これはくる」と思いながらも社会現象に至り認知が得られるのはずっと後のことです。

つまり「このビジネスはくるだろうけど、大企業が参入するからやめておこう」というのは、一概に正しい判断とは言えません。 大企業には大企業なりの制約やジレンマがあるのです。

そう考えると、改めて「早く動く」ことの 大切さを考える日々です。

2008/1/12 土曜日

後悔の経済非効率性

Filed under: 独り言 — admin @ 17:20:52

人は生きていると何かしらへこむことがある。ショックなことや悲しいことや。

何より、自分の失敗は一番つらい。自分のケアレスミスや何気ない一言が、将来にわたる後悔となる。生きていれば、よく後悔をする。

しかし、後悔は、非常によくない、と世の中では考えられている。「反省はしても後悔はするな」と。けれども、後悔をしないというのはそんなに簡単なことではない。

「あの時、ああしていれば」「あの時、なぜ気づかなかったのだろう」と自分を責めてしまう。知らぬうちに。

では、後悔の非効率性を論理的に考えるとどうなるか?考えてみた。問題は2つある。

1つ目としては、「それ自体が無駄である」ということ。後悔というものは、原則的に「過去に起こった何かに対して、悔いること」である。つまりは、「過去」のものなのだ。そして世の中では物理的に「過去のこと」は取り消せないし、変えることもできない。現状では。

そういう点において「後悔しても仕方がない」というのは事実である。後悔したところで過去はどうしても揺るがぬものなのだ。よかれ悪しかれ。

もう1点は、後悔は他の人に迷惑をかける、ということだ。人は自分では後悔をするくせに、人が後悔をしているとよく思わない。きっとそれは逆説的に「自分も後悔して嫌な気持ちになるからこそ」、他の人がそれをしているのを気分よくは思えない(思わないのではなく思えない)。

あるいは、「後悔でぐじぐじ悩んでいる」というのは、そもそもとして社会にも優しくなく、それゆえに、見ているほうとしても「愉快」ではない。

特に経営者や指導者など、決定権がある人においては特にその「ネガティブ」性が強くなる。つまり、後悔ばかりしている人に誰が付いていきたいと考えるだろうか?

上記の2点よりも、後悔は非常に経済的に非効率である。

しかし、個人的に「後悔はまったくせずに過去の過ちを全て忘れる」というのも、それまた問題があると考える。なぜなら、失敗は「プラス」に転化できてこそ、その失敗が生きる。つまり、過去は取り返せないけれど、過去の出来事がマイナスだと考えるのは自分自身である。そのため、そのマイナスと捕らえる価値観をプラスにできれば「過去のマイナス」は消せるというマジックが成立する。

ゆえに、後悔というものは、忘れるものではなく、プラスに転化してこそ、そこに価値がある。しかし後悔している対象をプラスにするのは簡単なことではない。時間もかかれば、実際に過去のそれに対するアクションをして、それをプラスにしなければいけない。けれども、上記の2点を踏まえると、いつまでもその後悔を持っていてはいけない。

そのため、私のおとしどころとしては、「後悔した」場合には、1日だけ、それをぐっと捉えることにしている。そして、その出来事を、1日でプラスにするようにする。もし1日でそれが出来ない場合は、忘れることにしている。

そうして、なんとか後悔と付き合って生きる日々です。

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